歴史探訪
東国一円の重要拠点だった古河
古くは万葉集にも登場、河川交通の要所として、江戸時代には譜代大名の城下町、日光街道の宿場町として栄えてきました。足利氏とのつながりも深く、中世東国社会の政治文化において重要な位置を占めてきた古河公方の拠点として知られています。
古河公方と称した足利成氏
古河公方の起こりは、1338年京都に幕府を開いた将軍足利尊氏が関東地方を治めるために子の基氏を鎌倉府の長官である鎌倉公方として派遣しましたが、その後、鎌倉公方4代持氏が京都の将軍家と対立、1439年6代将軍義教と一戦を交え、その結果、鎌倉公方は破れ、持氏は自害させられました。その後、生き残った持氏の子成氏が許されて鎌倉公方に就任しましたが、再び幕府に反旗を翻し、1445年鎌倉から古河の地に座を移したことによります。
爾来120年余りにわたって古河公方と称し、東国一円の重要な位置を占めてきましたが、現在も公方ゆかりの寺院や史跡が残っており、特に古河公方足利氏の古河城の別館であった「公方館跡」や古河公方開基の「徳源院跡」一帯は、「古河公方公園(古河総合公園)」として、自然や史跡探訪の地となっており、市民に親しまれています。