こがナビ 古河市観光協会

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ゆったり3時間コース

※歩いて行ける3時間コースです。

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古河駅西口 からスタート

JR古河駅改札口を出てすぐ右手に観光案内所があるので立ち寄ってみましょう。各種パンフレットが用意されており、観光ガイドが午前10時から(土・日・祝祭日は午前9時から)午後3時まで詰めているので、いろいろ情報が入手できます。

02

日光街道

西口を出て停車場通りを直進すると、約400メートルで旧日光街道に出ます。日光街道は、東照宮が日光に造営された元和3年(1617)以降、日光社参と奥州への道として整備されました。日本橋を起点とした五街道の一つで日本の幹線道路、幕府の交通網とし整備されました。(日光街道は21宿、古河は江戸から数えて9番目の宿場です。)ここが市内の目抜き通りで、かつての城下の中心部でした。左折するとすぐ左側に高札場跡があります。
 高札場は札場ともいわれ、幕府の禁令を掲げるところで、町役人によって厳重に管理されていました。

本陣は高札場の向かい側に、本陣跡の石柱の表示があります。大名の宿泊所で格式が要求されたので、庶民の家では造ることができない門、玄関、書院を設けることが許されました。
 高札場跡の十字路を館林方面に右折すると、篆刻美術館、永井路子旧宅に行くことができますが、ここは直進して次の信号を右折して肴町通りにでます。

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肴町、古河藩使者取次所(御馳走番所)

 肴町、米銀のところに大名の使者を応接する役所がありました。役人は客を迎えるために走りまわるので、ここの御馳走役人、役所を御馳走番所ともいいました。肴町というのは職業名の町名で、川魚を扱う御用商人がいたことによります。肴町通りは、古河城への食糧調達の道でもありました。

04

福法寺

肴町に入って最初の十字路を左折すると、すぐ右側に福法寺があります。福法寺の山門は旧古河城内の二の丸御殿の入り口にあったとされる門で乾門といわれ、市内に現存する唯一の城内遺構の門です。明治7年、城取り壊しのとき檀家の一人が払い下げを受け、翌年寺に寄進、移築したといわれています。

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古河城出城跡、歴史博物館周辺​

右折して200メートルほど進めば歴史博物館周辺にでます。ここは古河城出城跡で土塁、お堀など当時がしのばれ、古河城跡が痕跡をとどめない今、貴重なエリアです。歴史博物館、鷹見泉石記念館、文学館と至近距離にありますが、まずは鷹見泉石記念館を通り過ぎ、歴史博物館に入館しましょう。ここで3館セット券(600円)を購入するとよいでしょう。歴史博物館では、古代から近代に至る古河の歴史と文化の概観を知ることができます。

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古河城跡城郭周辺

城の大手(正面)にあたり、敵の正面に攻めかかる軍勢(追手)を配置することから、城の正門(表門)のことを大手門とか追手門と呼んでいました。
 当該地の北に位置する東西方面の大通りを境に、北側は武家屋敷となっており(片町)、南側は城の堀と五間(約9メートル)ほどの高さの土塁が構築されており、追手門に入るには堀にかかる橋を渡りました。堀の水深は二尺(約60センチ)、堀幅は七間(約13メートル)とも一六間(約30メートル)ともいわれています。

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渡良瀬遊水地遠望

 広大な自然が広がる渡良瀬遊水地では、富士、浅間、赤城、白根、男体、大真名子、女峰などの山々が一望でき、時には榛名、妙義も見られる絶景ポイントです。
 
 三国橋から南方向の堤防上に古河城跡の表示があります。古河城は曲亭馬琴「南総里見八犬伝」の舞台の一つです。古河城芳流閣上の決闘は、前半部のクライマックスとして有名だが、古河城の櫓をモデルにしたのではないかといわれています。
 眼前に広がる本州最大といわれる約33k㎡の渡良瀬遊水地は、日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件によって出現しました。数々の文学作品の舞台ともなっています。江戸川乱歩賞受賞作、小林久三「暗黒告知」、伊藤野枝「転機」、荒畑寒村「谷中滅亡史」、永井路子「わが町わが旅」などです。
 また堤防上には、足尾鉱毒事件に生涯を捧げた「田中正造遺徳之賛碑」があり、明治天皇への直訴状が刻まれています。

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雀神社

市の西北端、渡良瀬遊水地のほとりにあります。約1,100年前に出雲大社から勧請したものと言われ、古河公方足利成氏をはじめ、歴代の古河城主が崇敬し、五穀豊穣、家内安全を祈願してきました。夏の祭礼には、いまも「ささら獅子舞」が奉納されています。

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正定寺と隆岩寺

古河は寺の多い町で、市内にざっと26ヶ寺ほどのお寺が存在しますが、正定寺は土井家の菩薩寺であり、古河を代表する寺院の一つです。

10

杉並通り

隆岩寺本堂と呑龍堂の間の路地を抜けると、杉並通りに出ます。この通りは、赤レンガと雪華をイメージして造られた道で、武家屋敷のおもかげを残す街並みと調和してなかなかの景観をかもしだしています。テレビや雑誌、ポスター等にもしばしば登場し、古河を代表する景観のひとつでもあります。

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日光街道古河宿道標

まち歩きも終わりに近く、いよいよ古河駅に向かいます。杉並通りを道なりに進むと、日光街道曲の手通りに出ます。信号を渡ると左角に「日光街道古河宿道標」があります。石造りで常夜灯型式、左日光道、右筑波道とあります。文字は幕末の書家小山霞外、梧岡、遜堂という父、子、孫三人の揮毫によるものです。
 城下町は道が直角に曲がるようにつくられています。それに相当するところが二丁目曲の手。日光街道と筑波道の分かれるところ、二丁目交差点に置かれていました。日光街道は曲の手通りから横町を通って城下を出ましたが、現在の道路が開通したのは昭和13年です。
 二丁目交差点を右折し、次の信号を左折すると、古河駅に着きます。