関東有数の城郭 古河城
古河城の創設時期は定かではないが、鎌倉公方、足利成氏が鎌倉から古河に座を移した15世紀中期以降、史料のなかに古河城という表記がみえることから、この時期に従来の陣から城としての整備がおこなわれたとみられています。 その後、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康の関東入部にともない古河城には徳川の譜代大名小笠原氏が入部し城の再建に勤めました。江戸期を通して11家が12回にわたって入れ替わり在城しています。江戸初期の歴代城主は数万石でしたが、奥平家の11万石・永井家の7万石を経て城下も拡張整備され、さらに土井利勝の16万石時代には本丸に御三階櫓が建造され城下の形が整ったとみられます。
城の規模は南北およそ1,800メートル、東西350~400メートル(濠幅を含めると450~550メートル)の規模を有します。これに出城である諏訪曲輪(南北105メートル、東西150メートル)がふくまれ、関東でも有数の城郭でした。 城の西を流れる渡良瀬川を自然の堀とし、城内に船着場を設けるほか、北側には民間の河岸問屋が営まれ河川交通の要地となりました。ただし城は城下の最も低いところに位置しているため洪水の被害をうけています。東も百聞掘と呼ばれる低地を利用した堀を構え全体に自然地形をうまく利用した縄張りとなっています。さらに東の台地を日光街道が開通し宿場としての機能も整えました。 なお、将軍家の日光社参の際は、一泊目の岩槻城・三泊目の宇都宮城とならび二泊目の宿泊城とされていました。将軍家の行列は日光街道の御茶屋口から諏訪郭北側を通り百聞堀を渡って、将軍お成りのとき使用されるという石垣を用いた枡形の御成門から城内に入り、丸の内・三ノ丸を経て二ノ丸の御殿に宿泊しました。 このように北関東の重要な位置を占めた古河城も明治6年の廃城令にともない翌年には建造物が取り壊されました。その一部は民間に払い下げられ、乾門(福法寺山門、古河市指定文化財)、文庫蔵(坂長本店御文庫・袖蔵、国登録有形文化財)、燈籠(鷹見泉石記念館)などが残っています。 さらに明治43年からの渡良瀬川の河川改修により流路を変えるため古河城の主要部分がほとんど破壊され河川敷となり中世以来の古城も壊滅しました。 明治3年、武藤松庵によって撮影された数葉の写真(5項)によって城の面影を偲ぶことができるほか、諏訪曲輪(歴史博物館)・観音寺曲輪の北端(頼政神社)、御成門北側の獅子ヶ崎に土塁・堀跡の一部を見ることができます。