古河城獅子ヶ崎土塁
古河城趾「獅子ヶ崎」(ししがさき)
「獅子ケ崎」は、戦略的要地として古河城内でもひときわ重要視されていた場所です。
その地理的形状は、 曲輪の突端、尖った土塁が堀に突き出すというきわめて特徴的な構造で、周囲より高く築かれたその土塁は、南に隣接する「御成門」と「御成道」のほか、古河城全体を見通して有事に備えることのできる場所でした。
江戸中期の文人で、思川のお手伝い普請のため古河滞在中であった藤堂元甫は、獅子ケ崎を「御成門の北の側に土居の出崎ありて猪ケ崎(ししがさき)といふ実も猪の鼻の形に似たり 其地高くして諏訪曲輪、御成門、桜門眼下に見ゆ猪ヶ崎を以て此城を名城とすといへり」と評しています。 「猪ケ崎(獅子ケ崎」は、古河城御成門と桜門の双方を眼下に警備することの可能な要害で古河城が名城たる所以は、その存在ゆえであると。また一説に、この高台に大砲を据えたともいい、この地の重要性をかいま見ることができることでしょう。
ちなみに「御成門」は、日光社参で古河城に宿泊した二代将軍徳川秀忠を迎えるため、 ときの城主であった永井直勝が造党した門です。以後、三代将軍家光、四代家綱、 八代吉宗、十代家治、十二代家慶という将軍が、この場所を通って古河城に御成となりました。通常、近隣に石の産地を持たない城に石垣は存在しませんが、古河城にあっては将軍の御殿があった本丸入口と将軍通行の御成門にのみ石垣が用いられています。